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公開文化講座

2016年5月11日(水)

「侘び茶と久田家の人々の役割」

生形 貴重 氏(千里金蘭大学 名誉教授)

宗旦は、子息十三郎(後の江岑宗左)の唐津藩主寺沢家への仕官が叶った頃に、長い闘病期間から立ち直り、利休の一畳半茶室を復元します。寛永10年(1633)、宗旦56歳のときでした。利休の亡き後、大名茶が主流だった茶の湯の世界に、利休の侘び茶が宗旦によって復活したのでした。その後、宗旦の晩年には、宗旦四天王と呼ばれた茶人たちが登場し、近世の茶の湯が展開していきます。しかし、元禄の頃になりますと、町人の茶の湯も派手になり、本来の侘びの精神は失われつつありました。そういう風潮の中で、久田家に連なる藤村庸軒や久田宗全、あるいは宗全の長男でのちに表千家6代家元となる覚々斎の努力は、利休の侘び茶への求心的な立場を保持していました。
今回は、侘び茶の精神を随流斎と覚々斎の時代を中心に庸軒や宗全の立ち位置から眺めながら、お話しいただきました。


生形 貴重 氏 千里金蘭大学 名誉教授生形 貴重 氏
千里金蘭大学 名誉教授
共催 一般財団法人 半床庵文化財団
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