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茶の湯文化にふれる市民講座 特別講座

四代家元江岑宗左三百五十回忌にあたり、講演会が開催されました。
今回は特別に猶有斎千宗左家元にご講演いただきました。

2022年12月11日(日)

「江岑宗左三百五十回忌によせて」

表千家 猶有斎 千宗左 家元

表千家4代江岑宗左は、茶会の記録や道具の書付をした道具帳、また周りの人々から伝え聞いた話を書き留めた茶書を家元に大量に残された。大学在学中、ほぼ手つかずのまま保存されていたこれらの文書史料にふれる機会を得られた猶有斎家元は、卒業後、不審菴文庫を設立され研究を続けられた。平成24年には江岑をはじめとした学術論文を執筆され、芸術学博士の学位を取得されている。猶有斎家元にとって茶道史を研究する原点となり、その道筋をつけてくれたのが江岑宗左であるとお話をはじめられた。
江岑宗左の足跡をたどるにあたり、猶有斎家元は江岑が残した茶会記と、父元伯宗旦が江岑に宛てて認めた書状を中心にお話をされた。これらは『江岑宗左茶書』『元伯宗旦文書』に所載、刊行されている。そのうち特に心に残ったエピソードとして、江岑が紀州徳川家に仕官し初めて指南役として携わった、寛永19年2月13日の茶会記を挙げられた。
この茶会で正客として招かれたのは細川三斎。秀吉の怒りを買い京を追われる利休との別れに際し、淀の船着き場へ古田織部と共に駆けつけた話は有名である。茶会に招かれた当時、三斎は80歳。師を見送って実に52年という歳月を経て、利休の曾孫である江岑と巡り合う。江岑は様々な先人達から伝え聞いた話を茶書として残したが、三斎から伝え聞いた話も数多く残されており、江岑の生涯の中でも特に印象に残る話だと述べられた。
江岑の仕官に始まり、200年にわたる紀州徳川家と表千家のご縁は歴代の家元に大きな影響を与えた。中でも江岑が初代藩主の徳川頼宣公にお茶を献じた際に用いたノンコウ作葵御紋茶碗は、千家と紀州徳川家とのご縁を象徴するものであるとされた。
江岑は晩年、後に随流斎となる宗巴に宛て、「江岑夏書」を書き残した。御家元宗匠は、その中で江岑が「利休流」という言葉を使っていることに着目し、利休により大成された茶道が江戸時代初めには既に「利休流」と呼ばれ、流儀という意識がこの時代に芽生えていたことが分かると述べられた。一方で江岑は、利休流では茶の湯について書き留めたものは無いとしている。宗旦も「茶の湯とは耳に伝えて目に伝え、心に伝えて一筆も無し」という狂歌を残している。つまりお茶の教えは実際の体験を通じて伝えられるもので、言葉や文字によって伝えられるものではないということである。
それではなぜ江岑は「江岑夏書」をはじめとした茶書を残したのか。利休をはじめとする先人達の話は、江岑が利休を祖とする茶の湯を継承していく上で重要な指標となるものであり、後継者の宗巴に伝えることで千家に情報を蓄積しようとしたことが、江岑の茶書執筆の意図の大前提にあったのではないかと考えを述べられた。
最後に、江岑が残した茶書の中から「茶の湯はろく(素直で真直ぐ)でなければならない」との一条を引用されて、自然体の所作やふるまい、趣向を良しとする表千家の茶風の礎は、既にこの江岑の時代に存在していたことが明らかであるとされた。
また、同じく江岑が書き記した「茶の湯は常の事也」との一文にふれ、亭主と客、お互いが相手を敬い尊重し合うといったお茶の心は、決して茶の湯だけの特別なものでなく、日常から常にそうした心がけで臨むように、といった意味合いが込められているものであり、非常に重いものを感じる言葉であると述べられた。
江岑の時代は、今に伝わる三千家が成立した時代であり、流儀という意識が芽生えはじめた時代でもあった。その中で、受け継がれるべき形や教えが確立されたのである。江岑が茶書を書き記すことで明文化し、ひとつの大切な指標となったことで、今日の千家茶道の礎が江岑の時代に確立されたのであろうとお話を結ばれた。

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